2013年07月07日

絵師からのメッセージ

 
 先日、中央区立郷土天文館の「絵画にみる時代の情景」展を見に行きました。

 現在中央区と呼ばれている地区を描いた、江戸から昭和にかけての錦絵と肉筆画を見られます。詳細な地図も何枚かあって、ずーっと見入っていたかったけれど、そういう訳にもいかず。

 なかでも私の心にぐっときたのが、井上安治のほの暗い版画と、川瀬巴水(はすい)の版画です。どちらも風景画。
 両者とも「ポストカードあったら絶対買っちゃう!」って思いました。
 井上安治のは、本当に、何と言うかほの暗くて、静かで、明治前期の絵なんだけど、見ていると当時にタイムスリップしたような感覚になる。
 川瀬巴水の絵は、見た瞬間、なぜか「ずるい!」と思っちゃった。なんでだろう。

 郷土天文館の収蔵品資料検索が出来るので、そこから画像拝借。
akasichou no ugo
川瀬巴水 東京二十景 明石町乃雨後

ginza yakei
井上安治 銀座通夜景


 とても見ごたえがあった特別展は、本日まで。
 入場無料。
 図録は200円!(63頁)

 
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2008年07月17日

浮世絵(12)初摺りと後摺り(3)

久々の浮世絵。
どこまでやったか忘れるほど長いこと放置してた(^^;



東海道五十三次。知立。昔は「ちりゅう」を「池鯉鮒」と書いた。
池鯉鮒 初版.JPG
初摺りでは後ろにくじら山がある。

池鯉鮒 後版(改版).JPG
後摺りは一部彫りなおし。くじら山が消えている。


大津。
大津 初版.JPG
初摺り。

大津 改版.JPG
後摺りでは、後ろの山がなくなっている。
これは彫り直しではなく、山の部分の版木を抜かした。
初摺りでは屋根に暈しがあるが、後摺りでは暈しがなくなっている。
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2007年10月20日

浮世絵(11)初摺りと後摺り(2)

東海道五十三次・日本橋、初版。
ちょっと人が少ない。
日本橋 初版.JPG


日本橋・後版(再販)。
版元が火事になって板木が焼けてしまったため、いちから彫り直した。
初版よりもぐっと人が増えている。
日本橋 再販.JPG
左端の白っぽい着物の人たちは「住吉踊り」の人たち。


東海道五十三次・戸塚。
戸塚 初版.JPG
馬から降りている人に注目。


戸塚・後版(再販)。
これも火事の為、いちから彫り直した。

戸塚 再販.JPG
初版では馬から降りていた人が、こっちでは馬に乗ろうとしている。


なんだか間違い探しみたいだ。
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2007年10月17日

浮世絵(10)初摺りと後摺り(1)

初版・初摺り・後版・後摺りについて
0710170126.JPG

 初摺りは絵師のイメージ通りの仕上がりになる。
 何回も摺っているうちに微妙に違っていく。摺り師によっての違いも出てくる。摺りによっては同じ絵だとは思えないほど違ってくる物もある。「赤富士」なんかも色使い自体が違っていたりする。
 初摺りに近い仕上がりになった物を「初摺りの手」と呼ぶ。
 摺っているうちに絵の具が蒸発していって濃くなってくると刷毛目がでてしまったりするが、これは良くない摺り。
摺りがいいときは自然に木目が出る。



0710170117浦原初摺.JPG
↑東海道五十三次 浦原 初摺り
 ・空の部分が天暈しになっている
 ・一番右寄りの人物の膝に彫残しがある(この画像では判らないけど)
 ・納得がいかなかったらしく、割とはやく後摺りに変更したのでレア物らしい
 
0710170116浦原後摺.JPG
↑東海道五十三次 浦原 後摺り
 ・空の部分を地暈しに変更
 ・膝の彫残しもなくなっている


 東海道五十三次の「日本橋」と「戸塚」は、版元が火事になって板木が燃えてしまったので彫りなおしたらしい。
 後から直すのには「かぶせ彫り」といって元の絵を板木に貼って新たに彫る方法があるが、そうではなく全く新しく彫りなおしたらしい。
 彫直しには他にも「首のすげかえ」などがある。顔の部分を彫りなおして他は全く同じという物。役者絵や相撲の絵などに多い。国貞の役者絵なんかも。要するに使いまわし。
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2007年08月30日

浮世絵(9)彫と摺A

無駄彫(むだぼり)

目印・目安として彫ったもの。
ためし摺りのあとで摺師が削って消してしまう。
月代の線などはよく削り忘れられる。
011.JPG


板暈(いたぼかし)
削った線の角っこをトクサで削ってまるみをだす。
国芳や北斎がよく用いた技法。



拭き暈(ふきぼかし)
板木をぬらし、そこへ絵の具をすっとひく。
薄い色の時は少しのりを入れる。
天暈(てんぼかし)と地暈(ぢぼかし)がある。
天暈は上から下へぼかす。
地暈は下から上へぼかし上げる。




一文字暈(いちもんじぼかし)

真横にまっすぐ暈す。



当て無し暈(あてなしぼかし)

部分部分暈す。
適当に刷毛の加減で塗るので、一枚一枚仕上がりが微妙に違う。

010.JPG

網目摺(あみめずり)

一板だけで摺ると線が溝に埋まって潰れてしまうような時に、縦線だけの板と横線だけの板の二つに分けて彫る。
蚊帳や雨、着物の細かい格子柄など。
「安宅の夕立」に奥行を感じるのは、雨の部分をを網目摺しているからで、しかも濃い色と薄い色で摺っているので深みが出る。



空摺(からずり)
色をつけないで摺る。

・布目摺(ぬのめずり)
板木にキメの荒い布を貼り付けて、ぎゅうっと摺る。

・きめ出し
色をつけないでぎゅっと摺ると線の部分がへこんで紙に凹凸が出る。エンボス加工のようなもの。

・正面摺(しょうめんずり)
絵を「表」から湯飲みやお猪口でこする。艶が出て、角度によって見えたり見えなかったり。

012.JPG


雲母摺(きらずり)

雲母の粉と膠で作る。
墨を混ぜないものは白雲母(しろきら)
墨を混ぜるのは黒雲母(くろきら)
うっすらと紅を混ぜると紅雲母(べにきら)
雲母の粉は高いので、禁止令が出たりする。

色板または型紙を置いて、その上から直接絵にぬる。(マスキング)
当時の雲母摺を見ると、雲母の粒子が凄く細かくてよく光るらしい。現代の雲母だと、同じように細かくしても当時と同じようにならなくて、胡粉のように白っぽくなるだけらしい。
雲母摺を施すと、絵の印象が一変する。

ラベル:浮世絵
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2007年08月16日

浮世絵(8)彫と摺@

彫の技法


頭彫り(かしらぼり)
 細かくて正確な部分を彫ること。
 具体的には、顔の部分や髪の毛。
 親方が彫る。

毛割(けわり)
 髪の毛の生え際を彫ること。

扱き彫(こきぼり)
 「扱き」は「削っていく」という意味。
 あらかじめ彫ってあった線で、あまりよくない部分を綺麗に直す。
 太すぎる線を細く直す。

胴彫(どうぼり)
 細かくない部分を彫る。
 身体の輪郭など。
 弟子が彫る。
 


摺りの技法

礬水引(どうさびき)
 浮世絵を摺る前に紙に施す作業。
 膠(にかわ)液に明礬(みょうばん)を混ぜた水溶液を、刷毛で紙に塗る。
 耐水性の強化と、摺ったときに絵の具が滲むのを防ぐため。
 
 塗った紙は乾かす。

 礬水引して乾いた紙を、摺る前に湿らす。
 湿らせないで摺ると紙が若干伸びてしまい、見当に合わせてもずれてしまう。
(江戸末期頃になってくると、とても作業が追いつかないので間に合わせをするために、紙を湿さないで仕事にかかってしまったことがままあるらしい。実際、広重などで絵と色がずれている物がある)
007説明入り.JPG
008.JPG


 浮世絵制作の様子を描いた浮世絵を載せようと思ったら、画像の編集が上手くできていなかった・・・・今度パソの調子がいいときに載せる。勝手なことをするし、いうこと聞かないし、生意気なパソだ。
 やっと画像を追加した。ふぅ。
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2007年08月13日

浮世絵(7)国芳と玄冶店

 長谷川時雨著「旧聞日本橋」に、国芳についての記述が見られる。


 p241〜大門通り界隈一束

 『−父の晩酌のとき、甥の仁坊(まさぼう)のおまつりの半纏のことから、山王さまのお祭りのはなしが出る。仁(まさし)の両親とも日本橋生まれで、亡くなった母親は山王さまの氏子、こちらは神田の明神さまの氏子、どっちにしてもお祭礼(まつり)には巾のきく氏子だというと、魚河岸から両国のきわまでは山王さまの氏子だったのが、御維新後に、日本橋の川からこっちだけが、神田明神の氏子になったのだと、老父(ちち)が教えてくれた。
 あたし達はかんだ明神へお宮参りをしましたが、お父(とっ)さんは山王さまへお宮参りにいったのですかときくと、そうだと言われる。 

 それからそれへと古いはなしが出る。以下は老父(ちち)の昔語り−

 玄冶店に居た国芳が、豊国と合作で、大黒と恵比寿が角力をとっているところを書いてくれたが、六歳(むっつ)か七歳(ななつ)だったので、いつの間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重も来たのを覚えている。二朱もってゆくと酒と飯が出たものだった。
 国芳のうちは、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次くらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十くらいの中柄の男で勢いの好い、職人肌で平日(しじゅう)どてらを着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫(しごと)をしていたものだ。武者絵の元祖といってもいい人で、よく両国の万八(まんぱち)−亀清楼(かめせい)のあるところ−に画会があると、連れていってくれたものだ。
 国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満が住んでいた。』



 以降、近所の人たちについての記述が続く。
 国芳のほかにも、三馬や歌川輝国についても書かれている。
 時雨の老父によると三馬は「子供心にも、いやな爺(じじい)だと思ったよ」だそうだ。
 歌川輝国については、うまや新道の小伝馬町側に住んでいたとのこと。「貧乏で貧乏で、しまいは肺病で死んだ」など。他にも面白いことが書いてあるので、輝国について書くことがあったら載せよう。

 この昔語りをした時雨の父は、天保十三年の生まれ。

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浮世絵(6)国芳の円熟期〜晩年

 弘化〜嘉永にかけての国芳の最盛期には、あらゆる分野に優れた作品を残した。
 「相馬の古内裏」「宮本武蔵の鯨退治」「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」などの大判三枚組の武者絵は国芳の傑作である。
 また美人画も多く残している。「大願成就有ヶ瀧縞」が代表的。

 国芳は安政三(1858)年頃、中風を患って筆勢が衰え始める。それでもなお多くの狂画を描いたが、最盛期のような筆力はみられなくなった。「外道浄瑠璃尽」シリーズ、「教訓善悪小僧揃」シリーズなどが晩年の作品。国芳は、可能な限り代筆を拒んだらしい。
 病気の悪化直前、小康状態の中で描いた作品「一つ家の悪婆」は晩年の大作。今も浅草寺に残されているらしい。この作品は、吉原の遊女屋「岡本楼」の依頼で描かれた大絵馬。

 国芳は文久元年三月四日、玄冶店の自宅で生涯を終える。六十五歳。
 門人の芳幾・芳富は師の肖像を描いて板行。国芳の友人たちは歌を詠み追悼の意を表明した。
 明治六年十月、国芳の友人および門人たちは、向島身三囲稲荷に追悼碑を建てた。墓の方は浅草大仙寺から千住に移り、今は小平市に。
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2007年08月12日

浮世絵(5)国芳のブレイク

文政十年ごろ、「水滸伝豪傑百八人之一個」(九紋龍史進、花和尚魯智深、行者武松、黒施風李逵、智多星呉用の五点)が加賀屋から出版される。これが大評判となり引き続き刊行された。国芳三十二歳である。
 師匠の初代豊国はこの二年前に没している。

 以降、国芳は次々と作品を世に出す。

・合巻「稗史(かなよみ)水滸伝」の挿絵
・狂画水滸伝(大判全十枚)
・源頼光公館士蜘作妖怪図 (天保末)
・其まゝ地口猫飼好五十三匹 (嘉永初年)
・荷宝蔵壁のむだ書
・短冊型外題の横絵シリーズ
 道化狐へん化のけいこ
 道化獣の雨やどり
 道化化もの夕涼
・↑と同時期に描かれた団扇絵

 この後、嘉永期の国芳狂画の黄金期に至って「狂画の国芳」「武者絵の国芳」といわれるようになる。
 嘉永三(1850)年、「高名時花三福対」(文化人を三幅対に見立てた番付)で幕末浮世絵の三巨匠が「出藍 一陽斎豊国、 真景 一立斎広重、 狂筆 一勇斎国芳」と列され、「狂画の国芳」は不動の地位を得る。
009 

 そして国芳は武者絵、美人画、役者絵と次々に作品を世に送り出す。天保初期の「東都名所」シリーズ(加賀屋から出版)は優れたアングル、板ぼかしによる明暗など、洋風表現をとった新鮮なものだった。

 国芳は、天保十四(1843)年に描いた「源頼光公館士蜘作妖怪図」で幕府を風刺したという噂が流れて発売を自主的に取りやめ絶版にした。
 しかしそれが逆に評判となって海賊版が次々と売られ、庶民の間に広まった。
 他にも「きたいな名医難病療治」「浮世又平名画奇特」も発売を取りやめている。
 「里すずめねぐらの仮宿」では、遊女を描くことが禁令に触れる(※)ので吉原仮宅の様子を雀の擬人化で表現した。



(※)天保の改革(天保十三年六月)
「錦絵と唱へ、歌舞妓役者遊女芸者等を一枚摺に致し候儀、風俗に抱り候筋に付、以来開板は勿論是迄仕入置候分共決て売買致間敷候・・・・」
として、役者・遊女・芸者の錦絵を売ることを一切禁じた。
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浮世絵(4)一勇斎国芳の無名時代

 浮世絵(2)下絵〜彫で書いた、「国芳が影響を受けた西洋画家」は アルチンボルド でした。
(アルチンボルドの絵が銅版画になった物を持っていたんだか見たことあったんだか、らしい)
 

 これだけ書いて更新するのも寂しいから、国芳のプロフィールでも書いておくか。


 国芳は寛政九年十一月五日、江戸日本橋本銀町一丁目の紺屋に生まれた。父は柳屋吉右衛門、母は柏谷氏。幼名芳三郎、俗称孫三郎。

 十五歳で初代豊国門下になる。が、無名時代が長く続き、その間兄弟子の国直に寄食し僅かな仕事をもらって食いつないでいたらしい。

 国芳は「水滸伝豪傑」でデビューするまでの記録は少ないが、文政初期の「大物浦平知盛亡霊図」や「大山石尊良弁瀧之図」などがある。しかし泣かず飛ばずの時期が十年以上続き、その間草双紙合巻の挿絵など多少あったが話題にもならなかった。

 国芳がブレイクするまでにこれほど時間がかかった要因は色々推測できる。まず一つは、兄弟子の国貞(=三代豊国)が売れっ子だったこと。次に、兄弟子の国直や葛飾北斎・勝川春亭・勝川春英など他派の画風に影響を受けていたので、版元が国芳の作品を扱う必要性を感じなかったのかもしれない。また師匠の引き立ても得られなかったことも大きいらしい。

 国芳は無名時代に、梅屋鶴寿(うめやかくじゅ)別称秣(まぐさ)翁に出会う。鶴寿は狂歌堂真顔の門人で、神田佐久間町で秣商をしていた。経済的な面で国芳を援助した。
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2007年08月07日

浮世絵(3)初摺りは何枚摺るのかと、板木の行方

 初摺り(初版のこと)は、五十〜六十枚摺って、売れ行きの様子を見る。評判が良ければ摺り増しする。
 初摺り二百枚とか言われているのは、江戸時代ではなく明治になってからの話。しかもあらかじめ購入希望者を募る。らしい。


 売れなくなった浮世絵の板木は、表面を削ってまた別のものを彫ってしまうので、どんどん厚さが無くなっていく。というわけで、板木という物はあまり残らない。
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浮世絵(2)下絵〜彫

下絵(画稿) 
003.JPG
↑歌川国貞「仮名手本忠臣蔵 五段目」下絵
↓歌川国貞「仮名手本忠臣蔵 五段目」錦絵
004.JPG
板元(版元)から注文を受けた絵師が、薄美濃紙(かなり薄い紙)に下絵を描く。訂正箇所は、紙を上に貼って書き直すが、紙を貼らずに朱墨で直す場合もある。  



板下絵(版下絵)
002.JPG
↑歌川国芳「誠忠義士肖像 小野幸右衛門」板下絵

絵師または板下絵師が描く。

絵師が描いた下絵の上に薄美濃紙を重ね、主板として彫り残す線や面を筆で写し描く。



墨板または骨板(主版または墨版)

彫師が行う。
板下絵を裏返し、板木(版木)(板木には山桜を使用)に貼り付けて墨描き部分を残して彫っていく。
鉤見当(かぎけんとう)と引き付け見当も板木に彫る。
「見当」は、重ねて摺っていくときに絵と色がずれないように合わせるための印し。紙一枚分程度彫る。彫りすぎても駄目。



校合摺り(きょうごうずり)
001.JPG
↑歌川国芳「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」校合摺
※国芳は西洋の銅版画を蒐集していた。
 この絵はその中の銅版画(作者失念。後で調べる)に影響された説あり。
※「曽我語」は誤りです。正しくは「曽我物語」
※人々は錦絵の随所にちりばめられたこういった小ネタを見つけては楽しんだ、らしい。
※因みに江戸っ子は「朝比奈」を「あさいな」と発音。

彫師が摺る。

墨板で墨摺(黒一色で摺る)。このとき見当も一緒に摺る。
色板(それぞれの色別の板)の数だけ摺る。



色さし

絵師が行う。

校合摺り一枚一枚に、それそれの色を朱墨で塗って何色かを指定。
例えば、紫だったら「むらさき」と書いておく。



色板

彫師が彫る。



色板が彫りあがったら、校正する。これは摺師が行う。
見当合わせ、板の修正、試し摺りなど。



初摺当初は、絵師が色合わせに立ち会う場合が多い。

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2007年08月04日

浮世絵(1)浮世絵の出現

1678(延宝6年)頃  

   菱川師宣「よしはらの躰(てい)」
   12枚組みの版画。
   墨摺り絵、つまりモノクロ。
   これはまだ「浮世絵」ではない。


1680(延宝8)年  

   菱川師宣画「月次(つきなみ)のあそび」
   年中行事を描いた絵本。ここで初めて「うきよ絵」という言葉が出てくる。
   「うきよ」は「現代的な」という意味。







1681(天和元)年  

   「それぞれ草」
    俳諧の本。
    一般的にはこれが「浮世絵」という言葉が出てきた一番古いものとされているらしい。


時代は下って、
1765(明和2)年
    
    鈴木春信による、オールカラー版画の出現。
    これを「錦絵」という。

    それまでは版画(墨摺り絵)でも、色付けを部分的に肉筆などで行ったりしていたが、「錦絵」は「多色刷り木版画」である。
    つまり、すべてを版木で摺るオールカラーの浮世絵が「錦絵」




なぜ浮世絵は十六文なのか。
1843年の天保の改革「浮世絵は十六文以下で売ること」
十六文は現代の貨幣価値で換算すると、
一両  =  4000文
↓       ↓
8〜10万円  20〜25円
なので、十六文はだいたい320〜420円くらいと考えられる。
ラベル:浮世絵 錦絵 版画
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