長谷川時雨著「旧聞日本橋」に、国芳についての記述が見られる。
p241〜大門通り界隈一束
『−父の晩酌のとき、甥の仁坊(まさぼう)のおまつりの半纏のことから、山王さまのお祭りのはなしが出る。仁(まさし)の両親とも日本橋生まれで、亡くなった母親は山王さまの氏子、こちらは神田の明神さまの氏子、どっちにしてもお祭礼(まつり)には巾のきく氏子だというと、魚河岸から両国のきわまでは山王さまの氏子だったのが、御維新後に、日本橋の川からこっちだけが、神田明神の氏子になったのだと、老父(ちち)が教えてくれた。
あたし達はかんだ明神へお宮参りをしましたが、お父(とっ)さんは山王さまへお宮参りにいったのですかときくと、そうだと言われる。
それからそれへと古いはなしが出る。以下は老父(ちち)の昔語り−
玄冶店に居た国芳が、豊国と合作で、大黒と恵比寿が角力をとっているところを書いてくれたが、六歳(むっつ)か七歳(ななつ)だったので、いつの間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重も来たのを覚えている。二朱もってゆくと酒と飯が出たものだった。
国芳のうちは、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次くらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十くらいの中柄の男で勢いの好い、職人肌で平日(しじゅう)どてらを着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫(しごと)をしていたものだ。武者絵の元祖といってもいい人で、よく両国の万八(まんぱち)−亀清楼(かめせい)のあるところ−に画会があると、連れていってくれたものだ。
国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満が住んでいた。』
以降、近所の人たちについての記述が続く。
国芳のほかにも、三馬や歌川輝国についても書かれている。
時雨の老父によると三馬は「子供心にも、いやな爺(じじい)だと思ったよ」だそうだ。
歌川輝国については、うまや新道の小伝馬町側に住んでいたとのこと。「貧乏で貧乏で、しまいは肺病で死んだ」など。他にも面白いことが書いてあるので、輝国について書くことがあったら載せよう。
この昔語りをした時雨の父は、天保十三年の生まれ。